頑張った分だけ、返ってくるはずだった
何かを始めるとき、私たちはどこかでこう信じている。 「頑張れば、その分ちゃんと返ってくる」と。
学校のテストも、部活の練習も、仕事の評価も、多くの場面でその図式はある程度成り立ってきた。だから新しいことを始めるときも、無意識にその物差しを持ち込んでしまう。今日やった分だけ、明日には何かが返ってくるはずだ、と。
けれど実際に何かを積み重ねてみると、その物差しがまったく通用しない瞬間に出会う。同じだけ時間をかけたはずなのに、ある日は何も起こらず、ある日は思いがけない形で結果が出る。努力と報酬のあいだには、まっすぐな線が引かれているわけではなかった。
「答え」を求めてしまう心理
なぜ人は、努力に対して「答え」を求めてしまうのだろうか。
おそらくそれは、努力そのものが不安を伴う行為だからだ。先が見えないまま歩き続けるのは心細い。だから「これだけやったのだから、これくらいは返ってくるはずだ」という仮の答えを自分の中に用意することで、不安をなだめている。
その仮の答えが実際の結果と一致すれば安心できる。逆に一致しなければ、「努力が足りなかったのか」「やり方が間違っていたのか」と、自分を責める材料にもなってしまう。
努力を「原因」、報酬を「結果」として単純に結びつけてしまうと、結果が出ない期間がそのまま自己否定の時間になりかねない。ここに、努力と報酬を安易に結びつけることの怖さがある。
報酬が「答え合わせ」ではなく「副産物」だとしたら
見方を少し変えてみる。
報酬を、努力の「答え合わせ」として捉えるのではなく、積み重ねてきたことの「副産物」として捉えてみるとどうだろうか。
副産物という言葉には、主役ではないというニュアンスが含まれている。主役はあくまで、続けてきた過程そのもの。報酬はその過程の中で、たまたま形になって表れてきたもの、というくらいの距離感で見てみる。
そう考えると、報酬が出ない時期があっても、それは「努力が否定された」ということにはならない。ただ、副産物がまだ形になっていないだけだ。過程そのものは、報酬の有無にかかわらず、確かにそこに積み重なっている。
積み重ねの中にしか見えないもの
続けている中で気づくことがある。それは、努力の成果は必ずしも「報酬」という一つの形だけに現れるわけではない、ということだ。
続ける中で身についた考え方、続ける中で見えてきた自分の癖、続ける中でしか出会えなかった小さな発見。これらは報酬という数字には表れないが、確かに積み重なっているものだ。
もし努力の答えを報酬という一点だけに求めてしまうと、こうした積み重ねはすべて「まだ結果になっていないもの」として見過ごされてしまう。けれど本当は、報酬が出るよりずっと前から、答えらしきものは少しずつ形になっていたのかもしれない。
「答え」という言葉自体を疑ってみる
そもそも、努力に「答え」という一つの正解があるという前提自体を、一度疑ってみてもいいのではないだろうか。
テストの答えのように、努力と報酬のあいだに明確な因果関係があるなら話は簡単だ。けれど現実には、タイミングや環境、運といった、自分の努力量だけでは説明できない要素が数多く絡み合っている。
だとすれば、報酬が出た・出ないという結果だけで、自分の努力全体を評価するのは、少し乱暴なのかもしれない。報酬は一つの結果ではあるけれど、努力そのものの価値を測る唯一の物差しではない。
それでも、報酬を目指し続ける理由
ここまで報酬と努力を切り離すような話をしてきたが、だからといって報酬を目指すこと自体を否定したいわけではない。
報酬という目に見える形があるからこそ、続ける張り合いが生まれるのも事実だ。数字として見える瞬間があるからこそ、これまでの積み重ねを実感できることもある。
大切なのは、報酬を「答え」として絶対視しすぎないことだと思う。報酬が出た日は素直に喜べばいいし、出ない日があっても、それだけで積み重ねてきた過程を否定する必要はない。報酬は答えというより、長い過程の途中でときどき顔を出す、一つの目印のようなものなのかもしれない。
おわりに
努力は報酬という一つの答えに向かって進む一本道ではなく、いくつもの副産物を生みながら続いていく、もっと緩やかな過程なのだと思う。
報酬が出た日も、出なかった日も、積み重ねてきた時間そのものはどこにも消えていない。その積み重ねを信じられるかどうかが、続けていく上でいちばん大切なことなのかもしれない。
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